ユニバーサル哲学カフェ

障害をメインに語り合います

第10回 論文「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」読書会 part3

読むもの:論文「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」(2018, ぽん)の2章

日時:10/10(日)13:00~16:00くらい。

場所:豊中市某所(申し込まれた方にお伝えします。)

参加費:無料(ユニ哲運営者へのカンパ歓迎)

お申込み先:yunitetsu@gmail.com メールくださいましたら、論文をお送りします。読んでから、参加するか決められて結構です。お気軽にご連絡ください。その他、疑問点などご遠慮なくご連絡ください。今回、案内が直前となりましたので、当日も読む時間を設けます。当日取り扱うのは論文の第2章だけなので、あまり時間がかからず読めると思います。

2章は、近代以降の日本における吃音がテーマです。吃音者が自助グループを作る運動などです。

吃音を治すとか受け入れるとか、今でこそいろんな考えがありますが、そもそもそれらの考え方が生まれた経緯を皆で読み解いていく会にしたいと思います。

第9回 論文「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」読書会 part2

読むもの:論文「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」(2018, ぽん)の1.3.から2章まで

日時:7/17(土)13:00~17:00くらい。遅刻・早退、問題なしです。

場所:高槻市の公民館(申し込まれた方にお伝えします。)

定員:全部で10名少し 募集は若干名

参加費:無料(ユニ哲運営者へのカンパも歓迎)

お申込み先:yunitetsu@gmail.com メールくださいましたら、論文をお送りします。読んでから、参加するか決められて結構です。お気軽にご連絡ください。その他、疑問点などご遠慮なくご連絡ください。

 

ぽんです。今回は前回の続きをやります。具体的な内容としては、吃音者をとりまく他者が吃音に対してどんな印象を持っているか、また吃音者自身が他者とのやりとりの中でどのように振る舞っているかを考えます。その後、障害の社会モデルとは何か、今一度整理します。時間があれば、2章の「吃音の歴史」まで進みたいと思います。

この論文の会は、ゆっくり丁寧に進めていきますので、前回参加されていない方でもついていけるような内容にしますので、ご安心ください。

第8回 論文「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」読書会 part1

読むもの:論文「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」(2018, ぽん)の3分の1(全180ページのうち70ページほど)

日時:6/27(日)13:00~16:00くらい 場所は12:00前に開場します。13時までの一時間は、論文の指定箇所を読んだり、ご飯を食べたりするのにお使いください。遅刻・早退、問題なしです。

場所:大阪市北区の喫茶店(申し込まれた方にお伝えします。最寄り駅からは歩いて10分少しです) 車椅子でも入れます

定員:全部で10名少し 募集は若干名

参加費:お店にワンオーダー以上 千円程度のお昼ごはんを頼まれる方はそちらも申し込み時に明記ください(おいしいです) ユニ哲運営者へのカンパも歓迎

お申込み先:yunitetsu@gmail.com メールくださいましたら、論文をお送りします。読んでから、参加するか決められて結構です。お気軽にご連絡ください。その他、疑問点などご遠慮なくご連絡ください。

 

ぽんです。今回は、僕の修論を題材にさせていただきます。

タイトルは「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」というもので、

その名の通り、吃音症を「障害の社会モデル」的に考えよう、という提言を論文内で示しています。

 

「障害の社会モデル」とは、障害者に対して自己責任論を振りかざしたり、憐れまれるべき存在として扱うような考え方に反発し、当事者の視点から社会を変革することを目指す理論のことを言います。

 

第1回となる今回は、2章まで進めます。

以下、2章までの目次です。

 

はじめに

1章 吃音症の性質と社会的構成

 1.1. 症状の特徴と進展

 1.2. 吃音症を「治療」するという視点

 1.3. 吃音者を取り巻く他者

 1.4. 「社会モデル」という視点

2章 近代以降の日本における吃音症に関する歴史研究

 2.1. 戦前期:楽石社と吃音矯正

 2.2. 1997年以前:言友会と吃音克服

 2.3. 1997年以降:吃音症の「障害」化とその影響

 2.4. まとめ

 

1章は、専門家によって生み出された吃音症の基礎知識を整理した上で、従来「治療」という観点で捉えられてきた研究が大半であったこと、それとは別に「聞き手」の捉え方に焦点を当てた研究もあったこと、そして、新しい視点として「社会モデル」の見方を提言している章です。

 

2章は、明治時代以降の吃音症を取り巻く歴史を整理しています。「治療」一強だった戦前、吃音を「受け容れる」という視点が加わった戦後、そして「障害」として法的に認定された現在まで、吃音に対する当事者の捉え方の変遷を辿るとともに、当事者団体のあり方についても触れている章です。

 

執筆から3年経った今、改めてこの論文を読み返すのを楽しみにしています。ぜひ、いろいろコメントをいただきたいなと思います。

 

吃音の捉え方について今一度考えてみたい方、障害学に興味がある方、是非ご参加ください!

 

 

吉備ヤキ備です。名前変えました。今回は論文を、著者と一緒に読むという贅沢な回です。ぼく自身、この論文にとても影響を受けました。ユニ哲はじまった時から、やりたいなと言っていた企画が実現することになり楽しみです。

第7回 マイノリティであることと非モテ

日時:10/24(土)13:00~16:30(終わらなかったら延長の可能性あり。退出自由)

指定図書:ぼくらの非モテ研究会編『モテないけど生きてます』(青弓社, 2020年9月)

場所:京都市内某所(申し込まれた方にお伝えします)

定員:先着8名

参加費:ひとり200円+カンパ(金額自由)

お申込み先:yunitetsu@gmail.com(主催者に直接連絡するのも歓迎です)

 

主催者のひとりの八木です。

ぼくらの非モテ研究会さんが、本を出しました。『モテないけど生きてます苦悩する男たちの当事者研究』(青弓社)です。

 

今回は、この本の読書会をします。

実はぼくも非モテ研に、設立まもない時期から参加しています。その中で感じるのが、非モテ研はすでに自らのマイノリティ性と向き合ってきたメンバーが多いなということです。たとえばぼくも、吃音に向き合ってきた歴史があったから、非モテ研に参加できたと思います。というのも、自分を「非モテ当事者」として見るというのは、ちょっと自虐的というか、笑いがあると思うんです。そういうふうに、マイノリティとしての自分を距離をおいて見ることは、吃音を通じて自分のマイノリティ性に向き合ってきたことからできたと思います。

非モテ研は、自らを(どちらかといえば)男性だと思う人たちをメインとしたグループです。男性たちが、自分をマイノリティとして見ることがむずかしかったことからか、男性による恋愛についての語りは、権力や支配を誇示する形をなすことが多かったと思います。しかし男性であっても、自らのマイノリティ性を自覚している人たちからは、権力や支配によらない関係づくりへの模索が見えることが、今回の本によっても示されたのではないかと思います*1

目次を開いてもらえるとわかりますが、この本は非モテ研メンバーの10人+村本先生が執筆しています。非モテ研主催者である西井さんの論考がいくつかと、会のコアメンバーである足達さんやマイルさんやリュウさんといった人たちの個人研究がひとつずつ、それから西井さんと明日葉さんの共同研究があり、そしてカフェフィロの山本さんにファシリをしていただいた座談会と、村本先生の解説というつくりになっています(あとがきまで含めて全部で25あります)。今回は、参加者一人につき、どれでもいいのでひとつ以上の文章をご担当いただき、レジュメを作ってきていただきたいです。いくつになってもかまいません。かぶるの前提です。もしその日で終わらなかったら、同じメンバーで第二回をしようと思っています。

基本的にあらゆる方がご参加いただけますが、参加のしかた等にご不安のある方は、お申込み時にご一報ください。できることはします。会場は建物の2階なのですが、残念ながらバリアフリー設計ではなく、階段です。持ち上げられる重さの車椅子は、スタッフや参加者で持ち上げます。また、手話ができる人はおそらく当日いませんが、筆談などはできるだけ対応させていただきます。

また、前回のユニ哲から、会にルールを作って、試験的に運用しています。以下、そのルールです。

・この場で話されたことを、個人が特定できる形で許可なく、他の場に発信しない。

・自分のことをどの程度話すかは自由である。名前、身分なども言いたい範囲で言うことができる。

・聞いていて気分が悪くなったときなど、自由に退出ができる。また、話の内容の再考をうながすこともできる。退出されたときは、適切なタイミングでその人の望む限りにおいて、適切な話し合いやケアを持つようにする。

・この場で加害や被害が起きたとき、起きたと感じたときはそれを、会の最中でも終わってからでもいいので、各々が望む形で申し立てることができる。

・伝えたい内容の表現方法や参加のしかたは自由とする。

☆以上のルールすべてについて。この場で発生した問題について、主催者であるふたりは、他の参加者の助けをえながら、目の前のできごとに取り組む責任を有する。

 ルールは当日、会のはじめに確認します。この内容に賛同されない方もご参加いただけます。その場合は、はじめにみなが納得できるルールを作って、それから会をはじめます。会の全体に言えることですが、ご意見はお気軽にお申し出いただけたらと思います。

 

本田です。
僕にとっての「非モテ」とは加害でした。

自分の想いを晴らすために告白をすること。
相手に自分の理想を決めつけのように投影すること。現実とのズレを認めようとしないこと。
恋人がいることをステータスと捉え、単なる承認欲求のために相手を利用すること。
相手の事情を無視してアプローチをかけること。

『モテ生き』を読んで、確信しました。
やはり「非モテ」とは「加害」であると。

でも、この世に「加害」をしない人はいません。
極端なことを言えば、俗に言うモテている人もある意味「非モテ」だし、パートナーがいようが結婚していようが、皆「非モテ」なのです。

でも僕は「非モテ」というのは凄く価値のあることだと思っています。自分の加害性に気付いて、初めて自分を「非モテ」と位置づけられるからです。「非モテ」意識の強い人は、それだけ自分の加害性を意識できているということなのです。

なんか、いろいろと語弊のある文章だったかもしれませんが、第7回ユニ哲では、今一度、自分の「非モテ」的な側面と向き合いたいと思います。よろしくお願いします。

*1:とはいえ、青い芝の会についての映画「さよならCP」で脳性マヒの男性たちが、性体験をいかにも男性的に語る場面もあったので、マイノリティであるがゆえに、「強い男性」たろうとする反動も起こり得るのだとは思います。もちろん望ましいことではなく、そこからどう移行するかを考えたいです。ちなみに青い芝の会については、第4回でも取り上げました。(第4回 障害者からの社会変革は可能かー青い芝の会の歴史に学ぶー - ユニバーサル哲学カフェ

第6回 「社交」ってなんだろう

6/27(土)13:00〜15:00(話したりない人はその後も話せます)

指定図書:『人と食事するのが怖い!会食恐怖症ってなに??』(朝来おかゆ, 合同出版, 2020)と『かんもくの声』(入江紗代, 学苑社, 2020)

場所:未定

場面緘黙症、会食恐怖症、社交不安症当事者の方はzoomでの参加も可能です。

定員:先着6名

申込み先:yunitetsu@gmail.com


こんにちは、主催者の八木です。

前回から約一年ぶりになります第6回のユニ哲は、「社交」について考えます。

題材にする本は、朝来おかゆさんの『人と食事するのが怖い!会食恐怖症ってなに??』(合同出版)と入江紗代さんの『かんもくの声』(学苑社)です。

おかゆさんは会食恐怖症について、入江さんは場面緘黙について、それぞれ経験者としての体験を綴られています。

それが、ぼくの吃音の経験とも似ているところがあるなぁと思いました。以下、畏れ多くも本を出された方々と並列して、自分の体験を書きます。

おかゆさんも入江さんもぼくも、それぞれの障害や病気が一因となって、高校まではとても内向的な日々を送るのですが、大学に入って心機一転がんばろうとします。

ぼくやおかゆさんは、大学に入るとともに自分の障害をカミングアウトします。それはとても怖いことでしたが、やってみると意外にみな受けいれてくれたりします。意外とうまくいったな、人間関係このままうまくいくかな…?とおもっていると、しばらくして行きづまります。

また、入江さんは大学2回生のときに躁になり、かなりクレイジーなことをたくさんされます。ぼく自身も実は浪人~大学1回生のころ、抑圧的な中高から解放されたことから軽い躁状態になって、いろんな人に話しかけました。この頃は吃音も軽くなってました。でもその後に、入江さんほどではないですが、揺り戻しがきます。

というふうに、違う症状でも、似た体験をしているようなのです。

そしてそこに必ずかかわってくるのが、「社交」つまり人とのかかわりです。

おかゆさんも入江さんもぼくも、社交不安障害だったのではないかと思います。人とのかかわりと、それに対する不安を語り合えたらと思います。

ちなみにぼくは今でも人とかかわるの怖いです。怖がりすぎて防衛しすぎて、本来仲良くなれる人とも仲良くなれなかったりしてるんかな…それもったいないな…とよく思います。でも、世の中やっぱり怖い人もいるし、しっかり自分を守るの大事やんなとも思います。人と会うのは、ちょっと怖いくらいがちょうどいいのかなと思ってます。

 

本田です。
お久しぶりです。約1年ぶりですね笑

今回は2冊の本(『人と食事するのが怖い! 会食恐怖症ってなに??』(朝来おかゆ著)、『かんもくの声』(入江紗代著))を用いて、社交について考える会とします。

なぜ、会食恐怖症と場面緘黙症という、テーマの異なるこの2冊を選んだか。この2冊にはいろんな共通点があると感じたからです。

例えばおかゆさんも入江さんも、「内と外」での自分の振る舞いのギャップについて悩んでいました。家の中ではある程度自分を出すことができるが、外に出ると過剰なまでに自分が引っ込んでしまう。身内と呼べる人には依存的に接してしまうが、いわゆる"他者"に対しては恐れのような感情を抱いてしまう。そんな自分の解離的な側面に悩んでいました。また、集団の輪に馴染めないことも大きな悩みとして挙げられていました。

また、「自己否定」がもとで自分を出せなくなっていることも共通点のように感じました。自尊心のなさ、自己表現が上手くできないというコンプレックスが、「他者からの否定への恐れ」に繋がり、そして、それがもとで他者と繋がれないことが、更なる自己否定を産む、という悪循環が起こっているのではないかと思います。会食恐怖症と場面緘黙症は、表面的な症状は異なっていますが、「周りと同じことができない」ことが、自己否定を強化している、という意味では共通しているのかな、と思いました。

そして、終盤に「自分を生きること」をこれからの展望として挙げていたことも共通しています。おかゆさんは漫画を書くことから始め、「こうあるべき」に囚われずにやりたいことをやっていきたいと描いています。また、入江さんは、当事者活動において、自分をコンテンツ化することで、自分なりの距離感で他者と繋がっています。二人とも、「自分がない」ことに悩んでいたものの、むしろ自分があるはずなのに、他者との関わりでそれが抑圧されていて、「自分」に気付けなかったということなのかなと思います。

両書に書かれていたことは、僕自身にも通ずる部分がありました。僕も、吃音とは別のところで、自分を出せない苦しみを昔からずっと抱えています。それは、自分の話すことは面白くないとか、価値がないとか、自己否定的な考えを持ってしまうことが大きく関係しています。また周りとずれているのではないか、という感覚も大きいです。(というか、多分本当にずれているんだな、と思ってるから余計に。)

ただ、一つ思うのが、他者の前で自分を出せないことについては、単に自己否定だけが原因ではないのかなということです。というか、そもそも自己否定感がどこから出てくるのか、ということをこの会で話し合えたらいいなと思っています。

そこでヒントとなるのが、「社交」なのではないかと思います。社交にはいろんな暗黙のルールがあり、ルールがある以上、当然、そこから外れる人が出てきてしまいます。社交の場において、人は行動を監視され、評価の対象となります。評価の基準を内面化した人は、それを自分にも当てはめてしまいます。つまりは、自己否定というのも、結果的には、他者(=社会)との関わりの中で生まれてくる側面があるのではないか、ということです。

真に「自分を生きる」ことをしようとすると、どこかで他者とは外れてくる部分が出てきます。各人がこの、他者との違い(=ズレててもいいやんってこと)を認めることが、社会的な課題となってくるのではないかと思います。入江さんの言葉から引用させていただくなら、「社会規範や今の社会のあり方を少しズラす」ことを考えていくことが大事なのかな、と。

当日よろしくお願いします。

 

本はどちらかを一部分だけでもいいので読んできてください。当日は『人と食事するのが怖い!』著者の朝来おかゆさんもいらっしゃいます。本を持参するとサインしてくれるかもしれません。

参加費は無料ですが、運営へのご協力として、お気持ちで結構なのでカンパをいただけますと幸いです。

当日、風邪の症状がある方は申し訳ございませんが、ご参加をご遠慮願います。

 

かんもくの声

かんもくの声

  • 作者:入江紗代
  • 発売日: 2020/02/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

人と食事するのが怖い!

人と食事するのが怖い!

 

第5回 マイノリティであることと恋愛・性

第5回、ユニバーサル哲学カフェについてご案内します。

今回のテーマは「マイノリティであることと恋愛・性」です。

 

皆様こんにちは、八木智大です。

かつて私は恋愛について悩んでいました。好きな人、といっていいと思うのですが、その人に対し、吃音があってコミュニケーションがうまくいかない、しかしどこかに光るものがある(恥ずかしながら本気でそう思っていました/います)自分を、あの人であれば理解してくれるはずだと幻想の役割を押しつけ、その押しつけに相手が嫌気をさし親しく話すことができなくなり、しかしその幻想にすがるしかない私はしつこく追いすがり、ついぞ会うこともできなくなりました。

それから幾年か悩みましたが、自らのマイノリティー性に自覚的な人々と交わりはじめたことで、回復していきました。コミュニケーションができないという感覚は小さくなり、恋愛のようなものは起こるべくして起こるのだから、気にやまずともよいといまは思っています。

「あの人であれば理解してくれるはず」と、私が強く承認を求めたのは、同年代の女性の、見た目も美しくまたその他の面でも人から称賛されるような人でした。単に理解してもらうのなら、同性の友人に求めてもよかったのではないか、と思います。私の中に、美しく頭がよく品がある同年代の女性に承認されたいという思いがあったのですが、それは社会が作り出したよい恋人像とあまりにもよく一致するものです。私はその女性を通して、社会にも承認されたかったのかもしれません。

人は多くの面でマジョリティになろうとします。学歴、職業、容姿などがありますが、恋愛もまたその一要素になるでしょう。(異性の)恋人や結婚相手がいるということは、その人のマジョリティ性を強化する働きをしているように思います。他の要素との関連も見つつ、マジョリティ、マイノリティーとしての恋愛を考えたいと思います。

 

こんにちは、本田基博です。

人が人を好きになったり、また、身体的に交わりたいという欲を持ったりするということは、世の中においてはある程度自然なこととされていると思われます。

しかし、実際にはそのような感情の持ち方は多様です。異性に対して向ける人もいれば、同性に対して向ける人もいる。また、そもそも「性別」という概念に縛られたくないという人もいれば、恋愛感情や性欲を一切持たない人もいる。

加えて、それらの感情を持っていたとしても、それを満たしやすい人と満たしにくい人が存在しているようにも思います。恋愛市場という言葉が存在する通り、そこには強者と弱者が存在するわけです。その違いはどこから生まれてくるのでしょう?

また恋愛というと、結婚という言葉と結びつけて考える人も多いでしょう。そうなると、また考え方も変わってきます。自分や相手が育ってきた環境、金銭的な問題、家族との関係…いろんな要素が複雑に絡み合い、単なる恋愛とはまた異なった関係性になります。

では、その中でマイノリティと呼ばれる人々の性や恋愛の実態とはどのようなものなのでしょうか?

それを探っていくには、まず性や恋愛というものがそもそもどういうものなのかを探っていく必要があるのではないかと思います。


マイノリティと呼ばれる人々は様々な面で生きづらさを抱えていますが、その中の一つに人間関係の構築があります。

恋愛というのは、通常、一人対一人の間の強固な繋がり(ある意味では脆弱な繋がりなのかもしれませんが…)が想定されており、人間関係の中でも一種独特な関係です。一対一の関係だけに、その繋がりは尊いものとされている反面、その間には見えにくい抑圧というものが潜在しているかもしれません。

また、その割には概念としては非常に曖昧なものです。単なる性的欲求と恋愛感情はどう違うのか、友情と恋愛感情はどう違うのか、これらの曖昧さを今一度考え直してみてもいいのではないかと個人的には思います。

マイノリティと呼ばれる人々(当然、自分たちも含めて)にとって、このような人間関係を構築することがどのようなことなのか、明らかにしていきましょう。

 

【詳細情報】

日時:6/15(土)10時開場 10時~13時頃:哲学カフェ

       その後、14時半頃まで休憩。14:30~16:30映画鑑賞。

      (途中の入退室は自由です。)

場所:KOREAN BOOK CAFE ちぇっちゃり 鶴橋駅すぐ

(今回、在日コリアンの方々のスペースを使わせていただくことになりました。障害に限らず、広い範囲のマイノリティを考えたいです) 

会費:場所代としてひとり500円(昼食は外で食べます)

予約先:yunitetsu@gmail.com

 

参考図書(読んでこなくていいです)

・荒井裕樹『障害と文学』:脳性マヒ者の運動と彼らの作った同人誌について。恋愛による親からの自立が重要なテーマ。

 ・河合香織セックスボランティア』:障害者の性について。

他にもおもしろい本や論文、ブログなどがあれば教えてください。当日持ってきてくださるのも歓迎です。

障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ

障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ

 

 

セックスボランティア (新潮文庫)

セックスボランティア (新潮文庫)

 

第4回 障害者からの社会変革は可能かー青い芝の会の歴史に学ぶー

こんにちは。八木智大です。第4回のユニバーサル哲学カフェは、障害者が生きるために、社会とどう向き合うかを考えます。

日本の障害者運動の中心には、脳性マヒの人々がいました。団体名を「青い芝の会」といいます。彼らは、1960年代〜会誌を通じて親交や思想を温め合い、1970年代〜自らの生存のため社会活動をしました。それは当時多くの人に過激と受け取られましたが、今の時代ふり返ってみると、まっとうな活動であったと見えるのではないかと思います。

数十年前に比べて、社会の障害者への理解はすすみました。現代の若い障害当事者が享受している権利は、彼ら先人たちの闘いによって勝ち取られたものです。その恩恵を、障害者だけでなく、あらゆるマイノリティ、あらゆる人々が受けています。

障害者運動は大きな成果をあげました。鉄道の駅にはエレベーターがつき、市バスにも車椅子で乗り降りできるようになりました。障害者自身が大きな声を上げなくとも、国や大企業などマジョリティが先頭をきって、我々障害者を「理解」しようとしてくれている。そう感じる一方で、障害年金が打ち切られたり、公務員が障害者差別をしたり、まだまだ闘わなくてはいけないことも残っています。今後、自分たちが生きていくために、障害者は何を目指せばいいのでしょうか。

今回は、青い芝の会の研究者である荒井裕樹さんによる著書『差別されてる自覚はあるか』と『障害と文学』を課題図書とします。『差別されてる自覚はあるか』は、青い芝の会の思想的リーダーであった故・横田弘さんの評伝です。横田弘さんは脳性マヒ者の中でも、歩けず言語障害も重く、弱い立場にありました。そして、その弱さを突き詰めて、考えを述べ行動されました。『障害と文学』は、青い芝の会が「しののめ」という脳性マヒ者の会誌から発展したことを明らかにしたものです。親や社会によって家に閉じ込められた脳性マヒ者たちが、会誌「しののめ」を通じて交流し、親への反抗心を育み、実際に家を出て脳性マヒ者同士で住みはじめ、当時の障害者にはタブーとされていた恋愛をし、青い芝の会という運動体に発展していく様子が描かれています。

青い芝の会がかつて、一番弱い立場にある人として、自分たちと健常者社会に突き詰めた思想と実践をふり返ることで、生きていくことを考えます。

 

皆様こんにちは。本田基博です。

障害は個人が持つ欠陥ではなく、社会的に構築されたものである。この考え方は、障害の社会モデルと言われています。これは、70年代に英米で活発に行われてきた障害者運動の中で生まれた考え方であり、社会に対して声を上げるということの重要性が示されました。

青い芝の会は、日本の障害者運動においては非常に先進的でした。その行動綱領の中にある「愛と正義を否定する」、「健全者文明を否定する」といった文言が示す通り、青い芝の会は「否定」という手段で社会に立ち向かいました。
また、「脱家族・脱施設」を掲げて、庇護される存在として生きることからの脱却を図り、また、自分達を庇護される必要のある存在として仕立て上げている社会(=健全者文明)に徹底的に抵抗しました。

かつて頻発した車椅子利用者に対するバスへの乗車拒否を解消するために、バスジャックを起こすなど、その手段は過激であると評されることも多いですが、それが結果的に現在に結び付いているというのも事実です。

このように、青い芝の会の活動は、現在の障害者運動には見られない急進性がありました。

現在はどうしても、何かを否定したり、過激な主張をすることに対する忌避感が社会全体の空気としてあるように思えます。これは、当時と今とでは時代背景が違いますので、流れとしては自然なことなのかもしれません。しかし、社会モデルは、本来的には権威主義的な社会に対する抵抗が根幹にあります。今でも社会モデルという用語は、障害について語る文脈でもよく出てきますが、その本来の意味とはズレのある用いられ方をすることが多いです。そんな今だからこそ、青い芝の会の運動を振り返ってみる意義は大きいのではないかと思います。

…と、ここまで青い芝の会のことを書いてきましたが、僕個人としては、「健全者文明」という言葉に引っ掛かりを感じたりしています。ここでの「健全者」とは誰のことなのか、なぜあえて「健全者文明」という言葉を用いたのか、そういったことも話し合えたらなと思っています。よろしくお願いします。

 

日時:5/5(日)10時〜13時 13時〜15時半は昼食つき交流会

場所:カフェ・コモンズ 大阪府高槻市 JR摂津富田駅・阪急富田駅すぐ)

料金:昼食(800円、要予約)またはワンドリンク および 会場費カンパ500円以上

予約先:yunitetsu@gmail.com

図書:荒井裕樹著『差別されてる自覚はあるか』『障害と文学』どちらかを一部分以上読んできてください 余裕ある方はレジュメの作成もお願いします

 

差別されてる自覚はあるか: 横田弘と青い芝の会「行動綱領」

差別されてる自覚はあるか: 横田弘と青い芝の会「行動綱領」

 

  

障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ

障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ