ユニバーサル哲学カフェ

障害をメインに語り合います

第3回 吃音の新刊を読む

ごぶさたしております。八木智大です。長く間があきましたが、久しぶりにユニ哲をします。今回は吃音がテーマです。ぼくと、共同主催の本田くんがともに吃音であることから、いつか吃音を取り上げたいと思っていました。

昨年から今年にかけて吃音の本がたくさん出ました。その中で今回は、伊藤亜紗さんの『どもる体』(医学書院 2018年6月)、菊池良和さんの『吃音の世界』(光文社新書 2019年1月)、近藤雄生さんの『吃音:伝えられないもどかしさ』(新潮社 2019年1月)を取り上げます。以上3冊のうち、1冊の一部分でも構わないので読んできていただき、吃音やその取り上げられ方について話し合いたいと思います。もちろん、3冊全部読んできていただいても結構です。

伊藤亜紗さんの『どもる体』のもとになったインタビュー(八木智大さん | Research | Asa Ito)と、近藤雄生さんの『吃音:伝えられないもどかしさ』のもとになった雑誌「新潮45」での連載「吃音と生きる5」にぼくは出てきます。よかったら読んでみてください。

 

お久しぶりです。本田基博です。今回3回目となるユニ哲を開催するのは、実に約9ヶ月ぶり。僕自身も待ちに待っていたという感覚です。

八木くんの紹介文の通り、今回は吃音をテーマとした回になります。個人的には、前の2回はあんまり吃音に縛られず、いろんな話が出来たらいいなというコンセプトで進めていたつもりでした。しかし、主催者が二人とも吃音であることだし、一度吃音を掘り下げる回をやってもいいのではないか、という八木くんの提案を聞いて、それに僕も賛同した、というのが開催に至る経緯です。

新刊を扱うということで、近年吃音がどのような形で捉えられ、どのような語られ方で世間や当事者のもとへ伝えられているのかを皆さんと共有したいと思います。そして、そこから一歩進んで、近年世間一般で共有されている「吃音像」というものを批判的に考え、再構築していけたら理想的ですね。

僕自身、院生の頃、吃音の研究をやっていましたが、なかなかに掘り下げ甲斐のあるテーマだなと感じております。言葉がつまったり出なかったりするといった、一見単純な症状の裏側には複雑な要素がいくつも絡んでいます。それを皆さんと一緒に紐解いていけたらなと思います。

吃音の人、そうでない人、いろんな人の意見を是非聞いてみたいと思います。よろしくお願いします。

 

日時:3/10(日)10時〜13時(開場9時半)

場所:大阪府高槻市富田 カフェ・コモンズ (阪急富田駅・JR摂津富田駅から徒歩2分)

予約先:yunitetsu@gmail.com

料金:お店にワンドリンクまたは定食(800円 要事前予約)をご注文ください

13時からはご飯を食べながら自由に交流する時間とします 場所は16時ごろまで取っています いつ帰られても大丈夫です

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どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

吃音の世界 (光文社新書)

吃音の世界 (光文社新書)

 

  

吃音: 伝えられないもどかしさ

吃音: 伝えられないもどかしさ

 

第2回 居場所って何だろう?

こんにちは、八木智大です。ユニバーサル哲学カフェの第2回をすることになりました。今回のテーマは"居場所"です。

 

日時:6/24(日)10:30~13:30ごろ

場所:賀茂川出雲路橋西詰あたりの河川敷(地下鉄鞍馬口駅から東に徒歩10分ほど)/雨天時は左京区の避難場所。前日に天気予報を見て連絡します。

 

以下、八木による紹介文です。

近年、"居場所"を冠する集まりをよく見るようになりましたが、ぼくはそれに違和感があります。居場所は結果的にそうなるものであって、はじめから居場所を名乗るのは無粋ではないかと思うのです。居場所と名付けられた場においては、その存続が最も重視され、それを脅かすことになる、他の参加者への批判的意見は封じられるように思えます。"居場所"を名乗れば名乗るほど、場が窮屈になり、居場所になりにくくなるのではないかと思えるのです。皆さんの居場所に対する考えを聞くことを楽しみにしています。

 

以下、共同で主催する本田基博くんの文章です。

皆様はこんな感覚を持ったことがあるでしょうか? 別にその場にいる誰かと仲が悪いわけではないし、むしろそれなりに楽しげなやりとりができている。でも、なぜだか虚しい。なぜだかその場に入り込めていない気がする。
僕はこの感覚を、「場に排除されている感覚」と勝手に名付けています。「場」というのが、そこにいる「個人」とは別に存在していて、ソイツから「お前はお呼びじゃない」と言われているような、そんな気分になることが時々あります。
逆に、「場」に自分の存在を肯定されているなと感じるとき、僕はその場所を「居場所」だと思うのでしょう。自分の身体・思想がピッタリと「場」にハマっていく感覚… よく使われている言葉だと、「帰属意識」がこれに近いかもしれませんね。
時として、人は「帰属意識」を持つことが強いられることがあります。学校や会社、趣味関連の集まり、あるいは友人関係でもそういうことがあるかもしれませんね。そのような状況では、人は「帰属意識」を持っている体裁を保ち続けることが求められます。そうなると、その「場」を「居場所」だと思い込もうと必死に努めることもあるかもしれません。
僕個人としては、この状況に陥っているとき、むしろ「場に排除されている」感覚が強いのではないかと思います。
ところで、このユニバーサル哲学カフェは誰かにとって「居場所」となりうるのでしょうか? あるいはなるべきなんでしょうか? その答えが皆様との議論の中で見えてくることを信じています。

 

夏の鴨川 - 出雲路橋より / Kamo-gawa River

 出雲路橋からの眺め(北方向)photo by Yuya Horikawa

 

申込み先:yunitetsu@gmail.com

ご参加をお待ちしております

第1回 受けいれるってなんだろう?

はじめまして。八木智大と申します。この度、「ユニバーサル哲学カフェ」をすることにしました。

この会でしたいのは、障害やマイノリティ性にまつわる言説によく出てくる言葉を再検討することです。受けいれる・居場所・考え方・ありのままなどを考えています。

ぼく自身に吃音があることもあって、吃音の当事者団体やその他マイノリティについての勉強会などに行ったり、それに関する文章をネットや本で読んだりするのですが、そういった言葉が「よい言葉」として無批判に使われていることが多いと感じています。

そこで、もう一度そういう言葉を見つめたいと思います。

参加することができるのは、すべての人です。ぼくは「すべての人がマイノリティである」という立場を取っています。ぼくは吃音という、わかりやすく、かつ社会的にも認知されたマイノリティ性がありますが、当然それ以外にも生きづらさがありますし、それはどんな人でもそうです。「猫が好きだけどマンションがペット禁止だから飼えない」なども、立派なマイノリティ性であると考えます。先に述べたテーマからいえば、「猫が飼えないのをどうやって受けいれようか」、「猫を飼わずに街中の猫をかわいがればいいという考え方もある」「猫カフェなど、猫好きな人の居場所に行ってみよう」「猫好きなありのままの私が認められないマンションはおかしい」ということが言えます。

第1回は「受けいれるってなんだろう?」です。

例えば吃音の世界では、吃音を「受けいれる」と「治す/改善する」という2つの「考え方」があります。それはしばしば「対立」のような形にもなっています。「あなたはどちらの考えですか?」とよく聞かれるのですが、その度にもどかしさを感じます。「受けいれる」か「治す/改善する」か、すぱっと割り切れるものなのかと思うからです。ぼくは自分の吃音を「受けいれている」と自認していますが、本当はもっと繊細な言葉で表すことができるはずだとも感じています。一体ぼくは何を受けいれているのか。どもる自分か、自分の吃音がすぐには治らないということか、どもりながらも人と話していくしかないということなのか。本当にぼくは吃音を受けいれているのか。

他にも、例えば在日朝鮮人/韓国人の人が、自分が在日朝鮮人/韓国人であることを「受けいれる」とはどういうことなのか。自分に日本社会で疎外されている属性があるということを認めることなのか。それだけでなく、本名を名乗る、朝鮮語/韓国語を学ぶなど実際的行動が伴ってはじめて「受けいれている」のか。「受けいれる」を成すと思われる他の枠組みもあるでしょう。

しかし別の例として、特に障害はないけれど人前で話すのが苦手な人がいたとして、それをそのまま「受けいれる」のもありなのかもしれませんが、本の音読をするとか落語を聞くとかして話す練習をしたら、うまくなるかもしれませんよね。でもどれだけ練習しても自分が希望するほどうまくならないようであれば、どこかで現状を「受けいれ」ないと、苦しくなってしまいます。自分の何を「受けいれ」て、何を「受けいれ」ないのかは、繊細な判断が求められるようです。

この会は、ぼくが友人の本田基博くんに話をもちかけてすることになりました。本田くんは、吃音と障害学について修士論文を書いて、この春に大学院を卒業しました。とてもうまく言葉を使われる人で、話をすると考えていたことが整理されていきます。本田くんにも文章を書いてもらいました。

八木智大

 

本田基博です。八木くん同様、吃音があり、大学院在学中に「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」というテーマで修士論文を執筆しました。タイトル通り、自分の過去の経験の分析から、社会に対して一石を投じることを目的とした研究になりました。

ところで、会の名前に挙がっている「哲学」とはなんなのでしょうか? さまざまな解釈があるとは思いますが、僕が思うに哲学とは、物事を深く掘り下げて考えることで、世の中の「真理」に近づくことなのではないかと考えています。その上で僕は、この会において、①抗うこと、②対話すること、③洗練することの3つを大切にしたいと考えています。

①の「抗うこと」とは、要するに、既存の価値観・社会通念(わかりやすく言えば「当たり前」)あるいは自明とされている事柄に対して疑いの目を向けていくことです。例えば、今回のテーマに挙がっている「受けいれる」という言葉は、非常に「綺麗」な言葉として、広く使われています。「自分の障害・欠点を受け入れた」と声高らかに宣言すれば、多くの人は自分を称賛してくれるでしょう。すなわち、多くの人にとって、「受けいれる」という状態は、一つのあるべき姿になっているのです。しかし、人が「受けいれた」という言葉を用いる時、その裏側には何があるのでしょう。実際のところ、障害などのマイノリティ性との向き合い方というのは動的なものであって、明確な到達点があるわけではありません。その中で「受けいれる」という言葉は、なんだか無理やり一つの到達点を設けているようで、違和感をおぼえてしまいます。この言葉が当たり前に用いられている状況に対して、抗ってみたいと思うのは僕だけでしょうか。

②の「対話すること」は、ただ話すだけではなく、批判的な視点を持ちながら、意見を交わし合うことです。近年、「みんなちがってみんないい」、「考え方は人それぞれだ」の一言で、対話が回避されてしまう場面が往々にしてあります。確かに、いろんな考え方がある、というのは間違ってはいないのですが、せっかくの「いろんな考え方」が、相互に独立しているような状況、なんだかもったいないと思いませんか? 対立を恐れて当たり障りのないことしか言い合えないような状況だと、考え方を深めることができません。もちろん、攻撃的な言葉で相手の考えを「否定」するようなことはあってはならないとは思いますが、何か他者の言葉に疑問を感じたとき、その疑問を素直にぶつけてみることで、逆に自分の考え方を問い直すことにも繋がるかもしれません。この会においてはそのような対話ができたら望ましいなとも思います。

そして③の「洗練すること」は、対話から生み出されたいろんな知見の集積を基に、「真理」だと思われるものを言語化して導き出していくことです。当然、完全な「真理」を掴めると思っているわけではありませんが、限りなくそこに近づくことはできるのではないかと考えています。僕は、修士論文の執筆中、自分自身や他の学生、指導教員と対話を繰り返す中で、吃音がなぜ障害となるのか、なぜ自分が何に苦しめられているのか、その「真理」とも呼べる部分が少しだけ見えてきたような気がしました。モヤモヤとしていたものが言語化されたことによって、自分や社会を以前よりも俯瞰的に捉えられるようになったとでも言うのでしょうか。そうすることで、自分の中のマイノリティ性を、「興味深いもの」としても捉えることができるようになりました。「真理」に近づくことは、ある意味、自分自身を抑圧から解放することにも繋がるかもしれません。

もちろん、対話をする中で、新たなモヤモヤが現れることもあるでしょう。しかし、それはそれで、新たな対話のきっかけともなりえるので、面白いのではないかと思います。とにかく、この会では深く深く、思考を止めることなく突き進んでいけたら楽しいのではないかと思います。よろしくお願いします。

本田基博

 

日時は、4/30(祝・月) 15時半開場、16時スタートです。4時間くらいかけてじっくり話そうと思います。途中の入退室は自由です。

場所は、大阪府高槻市富田駅近くにある カフェ・コモンズ です。エレベーターがあります。

また、参加方法は、「ふつうに」話す他、必要がある人は筆談など他の方法を使うことができます。

食事付きで800円となっています。お食事が不要な方は、ワンドリンク、あるいは参加費としてカンパ(金額は自由)をお願いします。

食事の都合もあり、事前のお申込を希望します。