ユニバーサル哲学カフェ

障害をメインに語り合います

第2回 居場所って何だろう?

こんにちは、八木智大です。ユニバーサル哲学カフェの第2回をすることになりました。今回のテーマは"居場所"です。

 

日時:6/24(日)10:30~13:30ごろ

場所:賀茂川出雲路橋西詰あたりの河川敷(地下鉄鞍馬口駅から東に徒歩10分ほど)/雨天時は左京区の避難場所。前日に天気予報を見て連絡します。

 

以下、八木による紹介文です。

近年、"居場所"を冠する集まりをよく見るようになりましたが、ぼくはそれに違和感があります。居場所は結果的にそうなるものであって、はじめから居場所を名乗るのは無粋ではないかと思うのです。居場所と名付けられた場においては、その存続が最も重視され、それを脅かすことになる、他の参加者への批判的意見は封じられるように思えます。"居場所"を名乗れば名乗るほど、場が窮屈になり、居場所になりにくくなるのではないかと思えるのです。皆さんの居場所に対する考えを聞くことを楽しみにしています。

 

以下、共同で主催する本田基博くんの文章です。

皆様はこんな感覚を持ったことがあるでしょうか? 別にその場にいる誰かと仲が悪いわけではないし、むしろそれなりに楽しげなやりとりができている。でも、なぜだか虚しい。なぜだかその場に入り込めていない気がする。
僕はこの感覚を、「場に排除されている感覚」と勝手に名付けています。「場」というのが、そこにいる「個人」とは別に存在していて、ソイツから「お前はお呼びじゃない」と言われているような、そんな気分になることが時々あります。
逆に、「場」に自分の存在を肯定されているなと感じるとき、僕はその場所を「居場所」だと思うのでしょう。自分の身体・思想がピッタリと「場」にハマっていく感覚… よく使われている言葉だと、「帰属意識」がこれに近いかもしれませんね。
時として、人は「帰属意識」を持つことが強いられることがあります。学校や会社、趣味関連の集まり、あるいは友人関係でもそういうことがあるかもしれませんね。そのような状況では、人は「帰属意識」を持っている体裁を保ち続けることが求められます。そうなると、その「場」を「居場所」だと思い込もうと必死に努めることもあるかもしれません。
僕個人としては、この状況に陥っているとき、むしろ「場に排除されている」感覚が強いのではないかと思います。
ところで、このユニバーサル哲学カフェは誰かにとって「居場所」となりうるのでしょうか? あるいはなるべきなんでしょうか? その答えが皆様との議論の中で見えてくることを信じています。

 

夏の鴨川 - 出雲路橋より / Kamo-gawa River

 出雲路橋からの眺め(北方向)photo by Yuya Horikawa

 

申込み先:yunitetsu@gmail.com

ご参加をお待ちしております